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今年5月、広島で開催された日本精神医学会に参加した。朝早めにホテルを出て回り道をして、原爆ドームに向かう川沿いの道を歩いた。道は細長い公園のようにきれいに整備されている。その中をゆっくり歩いて行くと、川をわたる風が心地よい。朝の爽やかな光が、木々の緑に踊っている。そのとき、「この世は美しい。人の命は甘美なものだ。」というフレーズが心に浮かんだ。これは、ブッダが晩年に語ったとされる言葉だ。

ブッダは、最後の旅の途中、長期にわたり傍に仕えた従者アーナンダーに対して、「ヴェーサーリーの町は美しい、ウデーナ霊樹は美しい」と語りかけている。ちなみに、「霊樹」は、パーリ語のチューティヤの訳だそうで、ティック・ナット・ハン著の小説ブッダでは、「僧院」と訳されている。仏教思想・東洋哲学の第一人者中村元先生によると、この時代に「廟」は作られておらず、チューティヤは、死者の遺骨の上に作られた塚またはその場所に植えられた樹木を意味するという。

 

ところで、精神医学の分野では、認知行動療法が標準的な心理療法となりつつある。学会でも、トレーニングコースが作られ、予約で満員になっていた。最近、ACT(アクセプタンス・アンド・コミットメント・セラピー)と呼ばれる新しい治療法が、認知行動療法の第三の波として注目されはじめている。

行動療法は、当初、行動科学から生まれた。人間の行動を、動物と同じく、刺激に対する反応としてとらえ、学習された反応を修正、あるいは新しい反応を習得してゆくことが治療と考えられた。中心人物は、不安・恐怖の治療に系統的脱感作が有効であることを、動物実験からはじめ人間に応用したウォルピである。これが、現在の、不安障害や強迫性障害に対する暴露療法の基礎になっている。

 

第二の波は、人間の場合は、認知の側面、すなわち、物事をどのようにとらえていくか、が重要であると唱えた認知療法の登場であった。中心人物は、うつ病の認知療法で有名なアーロン・T・ベックである。ベックは、認知の歪み(誤り)を修正することを治療の中心においた。修正するといっても、治療者が直接に誤りを正すわけではなく、質問によって別の考え方をうながしたり(アリストテレス的対話)、新しい考え方をもとに行動してみたりすること(行動実験)で、患者さん自身が、自分の目的にあった(これを“機能的”と表現する)思考や行動を身につけるようガイドする。これが、現在の認知行動療法の主流となっている方法だ。

 

これに対して、ACTでは、自分の感覚や感情、思考に“気づくこと”(マインドフルであること)を重要視する。例えば、会社で上司が、自分の提案を受け入れてくれないとき、頑張りに対して何も言葉をかけてくれないとする。その時に、ある人が「上司は、認めてくれていないんだ」あるいは「どんなに頑張っても無駄だ」と感じたり、場合によっては、「自分は会社に不要な人間だ」とまで考えていたとする。ベック流の方法は、そう考える事の根拠は何か、そう考えるとどういう気分になるか、別の考え方はないか、別の考え方をすると気分はどうなるか?などを明らかにしてゆく。

 

一方で、ACTでは、そのような考えを、自分の“マインド”が自分に語りかけてくる言葉として、意識しようという。バスの運転手に例えれば、うるさいことを言ってくる後ろの乗客(自分のマインド)に惑わされず、目の前の現実をしっかり見据えて、自分の目的とする方向に進みましょう(自分の目的にコミットしましょう)という。

 これは、少し知識のある方なら、森田療法の考え方に極めて類似していることにお気づきになるだろうが、さらにさかのぼれば、仏教思想そのものだ。仏教では、これらの心に浮かんでしまう考えを“妄想”と呼び(精神医学の用語とはちがう)、妄想を離れよ!(莫妄想)という。また、原始仏教では、瞑想を大切にするが、瞑想は、自分の感覚や思考を自分の中に生じているものとして、そのままに感じられるようになることを目指している。

 

認知療法の、“歪んだ認知を修正してゆく”という考え方は、いかにも西洋人らしい。「あなたの考え方は歪んでいる、正しい考え方ができるようになりましょう」と思えるところに、良く言えば自信、悪く言えば傲慢さが感じられる。現在では“歪んでいる”という価値判断から、“機能的でない”という目的志向になっていることは前述したとおりであるが、検討して正しい考え方を採用しましょうという点では変わらない。一方で、思考がもたらす苦しみを、マインドフルであることで乗り越えようとする東洋思想は、どこか、対立の次元を飛び越えるような軽やかさやしなやかさがある。認知行動療法が第三の波に至って仏教の考え方を取り入れていることを、ブッダはどのように感じるだろう。もう少し先がありますよと言って微笑んでいる気がする。

 

広島の霊樹の下で、そんなことを考えた。